母がくれた言葉|新清洲駅の歯科・歯医者なら、岡崎歯科

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母がくれた言葉

昨年夏、母を看取りました。

なんというか、あらためて母というのは特別な存在、ですよね。母は優しくも、間違いなく猛母でした。

昭和8年生まれの母は戦時下、栄養失調・空襲・疎開体験からの生涯に通底する戦争への憎しみがありました。戦後、女の子は良いお嫁さんに路線へ。しかし高校家政科卒業後就職、職場での女性の処遇に違和感を覚えるのに時間はかかりませんでした。加えて、学歴を理不尽に自慢する男どもに腹をたて「大学出がそんなに偉いんか」と啖呵を切り20代後半で職を捨て猛烈勉強を始めるのでした。そして大学進学。薬学部に学び薬剤師として身を立てようと猛勉ガンガン行くのでした。

やがて卒業、勤しんでいる30代半ば、周囲からの心無い言葉にまたしても腹を立てました。「婚期を逃している」と。なに〜!結婚ぐらいできるわ!馬鹿にしやがって!とすぐに見合い。そこに現れたのが40歳の痩せた、髪が薄くて自信なさげな中学校社会科教師の父でした。「この際無茶苦茶変でなければ誰でもいいわ」(そんなこと言っていいのか?)」と結婚。生まれた長男が私なのでした。「子育てはもう大変!うんこ30個食べるくらい大変!」は母の口癖でした。母の子供としてこの口癖にツッコミを入れる力も気づきもありませんでしたが、母はお構いなしに何回か言っていました。

厳しい母でした。小さい頃から食事を残すことは決して許しませんでした。栄養があるからと味噌汁にはお椀から溢れるほどの硬い茎ワカメがいつもありました。渋っていると最後は口に突っ込まれて最後の飲み込みまで急かされるのでした。茎ワカメは闘う宿命の相手となりました。教育熱心でピアノ、珠算、水泳、公文式に手を引いて行くのですがものの数ヶ月で私がもうだめれす、とても無理れすへにゃへにゃ〜と挫けて行かなくなるのでした。とほほ。母は一瞬悲しむのですがすぐに次の習い事に敢然と向かう鉄の心を持っていました。とにかく賢くならないかん、が口癖で「伸一なぁ、何にも身に付かんならどこかで野垂れ死ぬで。それならそれでそこまでだわ」とも。

小学校高学年になろうかという時期に徐々に母が鬱陶しくなり、たまたまその時やっていた少年野球にのめり込み、人生で初めて卒業の区切りまで取り組めたのでした。が、母は「いつまでも野球してないで私立中学受験して賢く生きないかん。」でした。そんなとこ行かんわ、地元でいいと言うと「世の中知らなすぎる。人から舐められるぞ。」と。おそらく母は人生で種々の理不尽を経験してきたのでしょう。反骨精神に敬意を持ちつつも母が経験していない開けた世界を生きたいなどと私も勝手に思ったりしたのでした。食べ物にありつくことすら儘ならない戦争やその後種々の不条理を自力で克服してきた体験を軸にする母。そんな母にしたら我が子が「この世が厳しいことをあまりに知らなすぎる。」のを許すわけにはいきません。時は流れて私が歯科医師になると母は手放しで喜びましたが、同時にこう言って釘を刺しました。母がくれた言葉で最も頻回に思い出すものです。

「先生と呼ばれていい気になっとるとそのうち馬鹿になるでな。」

おそらく、かなり、馬鹿になっています。なは。