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想像力の防波堤 1
「舐めやがって」
育った町では、この言葉が頻繁に飛び交っていた。角打ち酒場でも、商店の裏路地でも、町工場の軒先でも、人は時に顔を真っ赤にし、本気でそう怒った。「コケにしやがって」「バカにしやがって」子どもだった私は、それを少し怖がりながら見ていた。しかし長く生きてみると、あれは単なるガラの悪さではなかったのだと思う。人間の尊厳というものが、ああいう剥き出しの言葉になって噴き出していたのだ。人は損得だけでは怒らない。「自分を雑に扱ったな」と感じた時に、本当に怒る。そして、その怒りは時に連鎖する。一人の面子を潰した。軽く笑った。みんなの前で恥をかかせた。たったそれだけのことが、関係を決定的に壊す。私はそういう場面を嫌というほど見てきた。
一方で、下町には別の種類の人間もいた。誰かが窮地に立たされている。放っておけば、自分は安全だ。しかし、その時に「おい、待てよ」と口にする人がいた。その一言によって、自分が面倒に巻き込まれるかもしれない。別の誰かとの関係が壊れるかもしれない。それでも言う。そういう人を私は見た。あとから振り返ると、あれを「勇気」と呼ぶのだろうと思う。
さらに何かを始めようとする大人たちは、妙に丁寧だった。祭りでも、自治会でも、商売でもそうだ。
いきなり話を進めない。まず顔を出す。世間話をする。相手の親のことを知る。最近身体の具合はどうか聞く。酒を酌み交わす。相手の機嫌や意向を探る。自分がどういう人間か知ってもらう。子どもの頃は、まどろっこしいと思っていた。だが、あれは単なる馴れ合いではなかったのだ。人間は感情で動く。誇りで動く。恐怖で動く。疑心暗鬼で動く。そして、理解されているという感覚によって、ようやく踏みとどまれる。それを彼らは知っていた。
私は歯科医師になった。診断をし、治療計画を立て、説明を行う。科学的合理性を積み上げていく仕事である。しかし、長く臨床を続けるほど思う。人間は、正論だけでは動かない。「この先生は自分をちゃんと見ているか」「見下していないか」「置いていかれていないか」そこが崩れた瞬間、どれだけ正しい話でも届かなくなる。逆に、苦しい説明でも、「雑に扱われていない」という感覚があれば、人は耐えられる。
院長 岡崎伸一
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