心の安静|新清洲駅の歯科・歯医者なら、岡崎歯科

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心の安静

子どもの頃、私は静かな少年ではなかった。いや、本当は静かだったのかもしれない。ただ、心の中だけがいつも騒がしかった。下町で育った。夕方になると、揚げ物の油の匂いが漂い、路地では酔った大人たちの笑い声が混ざり合う。自転車のブレーキ音、テレビの野球中継、遠くで鳴る救急車。世界はいつも少し雑で、少し近かった。大人たちは強そうに見えた。しかし実際は怒鳴ったり、黙り込んだり、笑った直後にため息をついたりしていた。子どもながらに、「人の心は案外ぐらつくものなのだ」と感じていた気がする。父は不器用な人だった。多くを語らなかった。背中には疲労が張り付いていて、それでも翌朝にはまた出ていく。私はその背中を見ながら、「人は、自分を削りながら進むものなのだ」と思い込んでいた。母は感情の機微に敏い人だった。
私の顔色や声の調子の小さな変化をよく見ていた。うるさく感じることもあったが、今思えば、あの細やかさにずいぶん守られていたのだと思う。思春期になると、世界はさらに厄介になった。羞恥心というものが、急に身体の中に住み始める。自分の声。
歩き方。沈黙。好きな人の前での視線。すべてが過剰に気になった。一方で、「ここでは終わりたくない」という衝動もあった。狭い街を抜け出したい。もっと違う場所へ行きたい。認められたい。強くなりたい。だが、そのたびに逡巡した。本当に進めるのか。自分には何かが足りないのではないか。背伸びをしているだけではないか。若い頃というのは、突破したい自分と、傷つくことを恐れる自分が、同じ心の中でぶつかり続ける時期なのだと思う。偶然にも歯科医師になった。人の口の中を見る仕事は、不思議なほど「生活」に近い。その人がどんなふうに噛みしめ、耐え、忙しく生きているのかが、少しだけ見えてしまう。歯は、その人の人生に静かに付き添っている。食いしばり。睡眠不足。無理な働き方。長く放置された疲労。痛みを訴える人の中には、単に虫歯だけではなく、「休めなかった時間」が積み重なっていることがある。私は治療をしながら、ときどき思う。人は、心が静かでないと、本当には回復できないのではないか、と。もちろん、人生から不安は消えない。年齢を重ねても、人は迷う。責任は増え、失うものも増える。そんな中で昔より、「心の安静」という言葉の意味が少しわかるようになった。それは、何も感じない状態ではない。むしろ、揺れている自分を必要以上に責めないことだ。少年時代のざわめきも、思春期の羞恥も、若さゆえの突破欲も、親への複雑な感情も、下町の雑音も、全部を消そうとしなくていい。そういうものを抱えたままでも、人は静かになれる。今の私は、完璧な強さよりも、「少し休める心」を大切にしたいと思っている。忙しい日の終わり、診療室の灯りを落としたあと、ふと静寂が戻る瞬間がある。心の安静とは自分を壊し切らないための感覚なのかもしれない。そして私はたぶん、少年時代からずっと、その静かな場所を探し続けている。

院長 岡崎伸一