恐るべき自由②|新清洲駅の歯科・歯医者なら、岡崎歯科

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恐るべき自由②

しかし、当時の私は、そんな哲学的な言葉を持ち合わせていなかった。ただ畳に寝転がり、天井を眺めながら、「なんか、つまらんな……」と思っていた。それでも、自由を持て余す一方で、私は何者かになろうとしていたらしい。

時代遅れの文学青年を気取り、博多の古書店「痛快洞」で『江藤淳評論全集』全六巻を買った。五千円。もちろん、親の仕送りからである。大金だ。学食の定食は三百円だった。

でも、これを読めば頭が良くなるのではないか。物事の本質を鋭く見抜く、知的で思慮深い青年になれるのではないか。そんな不埒な期待を抱いていた。結果、一巻半で挫折した。残り四巻半には、とうとう到達することのなかった私の知性が、今も静かに眠っている。さらにバタイユの『エロティシズム』まで買った。禁忌、侵犯、官能、そして人間存在の深淵。そうしたものを理解できる人間になりたかったのかもしれない。もっとも、そのために仕送りを費やしている時点で、私自身がすでに相当な矛盾を抱えていた。蕩尽である。ただし、蕩尽していたのは、自分で稼いだ金ではない。親が送ってくれた生活費だった。

精神的自立を志向しながら、経済的依存を存分に享受する、、、メチャクチャとはこのことだった。若さとは、矛盾に鈍感であることによって成立する、一種の特権なのかもしれない。しかし今思うと、あの滑稽な営みもまた、自由を与えられた青年の切実な模索だったように思う。

人間は、ただ好きなことをしているだけでは、どうやら満足できない。何かを選び、何かを引き受け、何者かになろうとする。自由を手にした途端、人はその自由を使って、自分自身をつくらなければならなくなるのである。ラーメンを食べたいから食べる。それは自由だ。しかし、ラーメンを食べ終えたあと、自分はどう生きたいのか。そこには、誰も答えを用意してくれない。あの三日目に覚えた退屈は、単なる暇の持て余しではなかったのだろう。それは、自分という人間の輪郭が、思いのほか曖昧であることへの戸惑いだったのではないか。

さて、あれから幾十年。私は仕事を持ち、家庭を持ち、無数の責任を引き受けるようになった。あれほど忌み嫌っていた時間割が、今では私の生活を隙間なく埋め尽くしているし、納得できている。