恐るべき自由①|新清洲駅の歯科・歯医者なら、岡崎歯科

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恐るべき自由①

自由になりたかった。

何ものにも拘束されず、誰からも指図されず、朝起きてから夜眠るまで、すべてを自分の意志で決める。そんな生活が、いよいよ始まろうとしていた。大学進学に伴う福岡での一人暮らし。私は胸の内から噴き出しそうになる歓喜を、必死に抑えていた。しかし母は、息子の一人暮らしという歴史的事業に、いささか無粋な介入を試みた。「どんなところに住むのか見に行くわ」「いいよ。電車賃もバカにならんし、俺一人でなんとかやるさ」独立独歩の気概を示したつもりだったが、母は来た。部屋を掃除し、あれこれ世話を焼き、最後にこう言った。「あんたは何も自分でできんから、部屋もぐちゃぐちゃになるで。そうしたら人間終わりだわ。ちゃんとしやぁよ」部屋が散らかることと人間の終焉を直接結びつけるのは母らしい。「まぁ、なんとかやるわ」私は健気な青年っぽくした。そして博多駅。新幹線に乗り込む母を見送り、列車が視界から消えた瞬間、私は心の中で快哉を叫んだ。

よ〜し! 一人暮らし本格スタートじゃ〜!

冷たいアホな息子であった。

さて、自由である。「ここは博多〜、ラーメン食べたいなら食べるさ〜♪」意味不明の即興歌まで飛び出した。ラーメンを食べた。古本屋へ行った。好きなだけ本を読んだ。部屋に帰ってラジオを聴いた。寝たくなったら寝た。翌日もそうした。翌々日もそうした。そして三日目、私は奇妙な感覚に襲われた。あれ?これが自由なのか?同じことしかしていないではないか。思えば、私がそれまで自由と呼んでいたものは、ほとんどすべてが束縛への反動だった。学校へ行かなければならないから休みたい。勉強しなければならないから遊びたい。早く寝なさいと言われるから夜更かししたい。自由とは、何かを禁じられているからこそ魅力的に見える、反抗の別名だったのである。ところが、誰も何も言わない。ラーメンを食べようが、古本屋へ行こうが、昼まで寝ていようが、誰も咎めない。そして、誰も咎めないということは、誰も自分の一日を形づくってくれないということでもあった。

自由とは、何をしてもよいという祝福であると同時に、何をするか自分で決めなければならなかった。