天津飯|新清洲駅の歯科・歯医者なら、岡崎歯科

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天津飯

天津飯が好きだ。かなり好きだ。中華料理屋に入るとする。メニューを見る。酢豚もある。回鍋肉もある。チャーハンもラーメンもある。そこで、かなりの確率で天津飯を頼んでしまう。「またか。」自分でも思う。もっと冒険してもいい。麻婆豆腐定食でもいいじゃないか。担々麺だってある。しかし気づくと、口が勝手に「天津飯お願いします」と言っている。なぜなのだ。考えてみると不思議である。別に“主役感”がある料理ではない。中華料理界のセンターを張るタイプでもない。どこか曖昧だ。チャーハンほどパラリとした技術礼賛もない。ラーメンほど孤高でもない。餃子のような万能感もない。天津飯は、なんというか、少しぼんやりしている。卵、飯、餡。輪郭が曖昧だ。だが、その曖昧さがいい。レンゲを入れる。まず、あの表面。ぬらり。あの“ぬらり”がまず良い。光っている。店の照明を受け、餡が妙に艶めかしく輝いている。赤でもない。茶でもない。金でもない。半透明の琥珀色。あれはもう液体というより、“幸福の粘度”なのではないかと思う。そこへレンゲを沈める。すると、抵抗がある。サラサラではない。かといって重すぎもしない。絶妙にまとわりつく。この“絡み”である。天津飯は、全てが絡んでいる。卵が飯に絡む。餡が卵に絡む。そして味が舌に絡む。気づく。ああ、自分は昔から“絡むもの”が好きだったのだ、と。カレーもそう、どて煮もそう、汁が米へ侵食していく感じ。境界線が曖昧になっていく感じ。完全に分離された世界より、少し混ざり合っているものに惹かれる。そういえば人生もそうだった。理系になりきれない。文学青年になりきれない。熱血にもなりきれない。虚無にも徹しきれない。いつも少しずつ混ざっている。名古屋下町の猥雑さ、深夜ラジオ、中島みゆき、『大学への数学』、脳内彼女、咬合、倫理。全部、妙に“天津飯的”である。整然としていない。だが、妙にまとまりがある。しかも天津飯には、どこか“過剰な自己主張のなさ”がある。「俺が俺が!」と来ない。ラーメンのように人生論を背負ってこない。ステーキのような威圧感もない。ただ静かにそこにいて、

「まあ、とりあえず温かいから食べなよ」みたいな顔をしている。

あれがいい。思えば、自分が人生で救われたものは、だいたいそうだった。妻の存在自体がそうであり、古書店、深夜ラジオ、音楽、そして天津飯。強烈な思想や勝利ではなく、“絡みつくような安心感”。だから五十年経っても飽きないのだろう。天津飯は、料理でありながら、たぶん自分にとっては安心できる居場所、そう、安らぎそのものなのだ。

院長 岡崎伸一