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蛇口
中学生のころ、運動場の横にある水飲み場の蛇口を、じっと見ていた記憶がある。何をしていたのか、休み時間だったのか、体育のあとだったのか。ただ、蛇口を見ていた。きつく締めきれていなかったのだろう。銀色の蛇口の先端に、水がじわっと膨らんでくる。最初は小さい。透明で、頼りなく、今にも消えそうだ。しかし少しずつ大きくなる。重力に引かれ、下へ伸びる。ぷるぷると震える。そして、ぽとり、と落ちる。そのあと、また最初からやり直しになる。じわっ、ぷるぷる、ぽとり。じわっ、ぷるぷる、ぽとり。それが、「世界」に思えた。当時の私は、体も心も、否応なく、小さかった。体力測定はだいたい冴えない。運動も特別できない。勉強も突き抜けてはいない。女子と話せない。何かを言おうとしても、うまく言葉にならない。「いや、それ違うんだって」「本当はそうじゃないんだって」心の中では叫んでいる。しかし口から出る頃には、全部しぼんでいる。教室には、もっと自然に笑える人間がいた。もっと大きな声で話せる人間がいた。もっと速く走れる人間がいた。もっと“存在している”人間がいた。自分はどうなのだろう。薄かった。まるで鉛筆で弱く描かれた線みたいに、頼りなかった。だから蛇口を見ていたのかもしれない。水滴は、自分によく似ていた。何かになりそうで、なりきれない。形を持ちそうで、持ちきれない。膨らみながら、最後には落ちて消える。誰にも気づかれずに。だが今思う。あの頃、自分は「絶望」していたのだろうか。少し違っていた気がする。本当に絶望していたなら、蛇口など見ない。ひとは、本当に終わってしまう時には、世界を見なくなる。でも私は見ていた。水滴が膨らむところを。光を反射するところを。落ちる直前、かすかに世界を映しているところを。つまり私は、あの頃すでに、ただ、じっと、見てしまう人間だったのだ。それが生きづらさというのは傲慢かもしれない。ただ、気になることがいろいろあった。音、沈黙、表情、言葉尻、間、湿度、夕方の匂い、そして蛇口。そんなものを見てしまう。見なくてもいいのに。だが、その“無駄な凝視”によって、人は後になって救われることがある。五十年以上経った今でも、私はあの蛇口を覚えている。銀色の鈍い光、コンクリートの白っぽさ、少し湿った地面、誰もいない感じ、午前という時間が永遠に思えた感覚、そして、ぽとり、と落ちる水。人生とは案外、ああいうものかもしれない。勢いよく噴き上がる噴水ではない。劇的な滝でもない。
ぽとり、ぽとり、そしてまた、ぽとり。落ちながら、続いていく。あの日の少年は、自分を「自分なんてなんの価値もない。きっと早く死ぬだろう。大人になんてなれない」と時々思っていた。しかし今ならわかる。蛇口を見つめ続けていた少年は、同時に「世界をまじまじと見ることが何かにつながる」と予感していた、はず。きっと。
院長 岡崎伸一
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