でしょ〜、だから言ってやったわよ〜私も〜②|新清洲駅の歯科・歯医者なら、岡崎歯科

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でしょ〜、だから言ってやったわよ〜私も〜②

歳を重ねても美しく、若々しく、魅力的であり続ける。

そんな現代の理想像とは、ずいぶん違うところに彼女たちはいた。もちろん、見栄もあれば嫉妬もあっただろう。世間体だって気にしたに違いない。しかし、少なくとも子供の私の目には、彼女たちは自分を誰かに評価してもらうために生きているようには見えなかった。今日の暮らしを回す。家族の腹を満たす。腹の立つ相手には腹を立てる。そして、言ってやる。

そこには、自分の人生の当事者であることへの、揺るぎない確かさがあったように思う。生きることに遠慮がなかった。この言葉が、妙にしっくりくる。

不自由な時代の中で、彼女たちは不思議な自由を持っていた。制度として保障された自由とは違う。誰かに認めてもらう自由でもない。自分の感じたことを自分の言葉で口にし、腹を立て、笑い、時には諦め、それでも自分の足で今日を生きる自由である。もっとも、すべてのおばさんがそうだったはずはない。人知れず涙を流し、言いたいことを呑み込んでいた人もいただろう。

それでも、あの井戸端会議には、何か確かなものがあった。「でしょ〜」という共感。「私も〜」という連帯。人間は一人で強くなるのではないのかもしれない。自分の不満を聞いてくれる誰かがいる。理不尽を笑い飛ばしてくれる誰かがいる。多少の衝突があっても、明日になればまた同じ町で顔を合わせる。

人間関係が傷つくことと、人間関係が終わることは、必ずしも同じではなかった。あのおばさんたちの強さは、強靱な個人の内側にではなく、人と人との間に宿っていたのではないだろうか。

今は「打たれ強さ」というものが、ずいぶん貴重な能力になっているように思う。傷つかないこと。傷つけられないこと。自分の価値を損なわないこと。しかし、人間は生きていれば必ず傷つく。誤解され、拒まれ、思いどおりにならない現実に出会う。打たれ強さとは、何を言われても平気なことではないのだろう。腹を立てても、泣いても、誰かに愚痴をこぼしても、やがていつもの自分に戻ってこられること。

いわば、心の帰り道を知っていることだと感じる。