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父について
父が亡くなり25年。中学校教員の父は小柄で痩せていて髪も薄くいつも伏し目がち、口数は少なく笑顔はほとんどない、という自信無さげな印象漂う男だった。30代で教頭に就くとその後定年まで校長になることもなく管理職。たまに運動会だということで白い体操着に着替えた父のヨレた姿がいやだった。私は父が40才の時の子ども。たまに一緒だと「い~ね~、おじいちゃんと一緒で~。」と言われ続けた。「おじいちゃんじゃなくて、おとうさんです。」と私が言うと、話しかけた人は苦笑いながら「あらあら~ごめんなさいね~。」と父に努めて明るく言うのだが、父はいつも「あ〜」と不器用極まりないやり過ごし方でその場を立ち去ろうと私の手を引くのだった。つらかった。
酒を飲むと人が変わった。サントリーレッドをしこたま飲んだある日父が「ケーキを買ってやる。」と言って6才の私を連れてケーキ屋さんへ。ショーウインドウの前でフラフラしながらウインドウをばんばん叩きながら「シンイチ~これ~にすれか~か~。」と言うと、お店の若い売り子のお姉さんは店の奥へ。すぐに店主らしき体格のいいおじさんが出てきた。その状況がなんとも言えずフラフラの父の手を引いて帰った。
小学生の時たった一度、家族旅行をした。やっとうちの家族も家族らしいことできるんだーと期待していたと思う。浜名湖の旅館に泊まった夜、父がいなくなった。母に探しておいでと言われ館内を走り回った。はたして館内のスナックで飲みつぶれていた。他の客が倒れている父を見降ろして「ボウズのじいちゃんか~、しょーもねーなー」と。家族皆で旅行に来たのに一人で倒れている父…それを詰る大人に小学生の私は人生初めての悪態をついた。
「関係ないだろ!お前こそ死ね!」客は逆上したがどうなったってよかった。
悔しさでも悲しさでもない。哀しさ、と書くべき感情を初めて覚えたと思う。
父を尊敬することはなかったが、嫌いにはなれなかった。
ある日父にお世話になったという大きな男の人たちが家に来た。彼らは、在日朝鮮人で、20代の若き父が赴任先の中学校で在日の少年たちを集め僅か2年でバスケットボール部を強豪チームにした、というのだ。厳しい練習は過酷だったが父の熱意は小さな体から恐ろしいほど感じられました、と。人生の恩人です、と。え?それは本当に父ですか?
無口で酒とタバコとプロレス観戦の姿しかない父だったが、時々怒鳴るような独り言を言ったり、書棚の教育関連本やサルトルの「否認の思想」にものすごい書き込みがあったり、何かと闘い何かを抱えていた。もっと話せばよかった。うん、でも、うじむしのごとき弱い自分の中の操れない激しさは父が残していったものに違いない。そう思えることに感謝しているのでした。 院長 岡崎伸一