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不肖オカザキが「平和とリアリズム」を考えてみた
そもそも平和を考える上でのリアリズムとは何でしょう。例えば「世界は善意だけでは動かない」という認識を思考の底部に置きます。国際政治学では、国家は最終的には自らの安全保障を優先する存在であり、理想や道徳だけでは秩序は維持できない、と解説されます。ここで私は、リアリズムには二種類あると思えるのです。一つは「力のリアリズム」。軍事力、経済力、技術力。それらが世界を動かしているという認識です。これは確かに現実でしょう。しかしもう一つ、「人間のリアリズム」があります。人間は傷つく。憎しみは世代を超えて残る。一度死んだ人は帰ってこない。戦争は始めるより終わらせる方が難しい。これもまた、同じくらい現実です。ところが近代以降の安全保障論では、前者ばかりが「リアリズム」と呼ばれ、後者はしばしば「感傷」として扱われてきました。しかし、「戦争を止めるための戦争もまた戦争である」これは歴史が何度も示してきた事実です。だから本当のリアリズムとは、「武力の必要性を認識すること」だけではなく、「武力がもたらす不可逆的な破壊も認識すること」なのだと思えます。どうしても必要なことは「平和教育の充実」「過不足の無い自主的防衛力」「グローバルな国際交流」という複数の要素を、本当に大変なのですが、相互作用させることだと思えてなりません。これらは互いに代替ではなく、異なる層と言えます。防衛力は「今そこにある危機」への備え。平和教育は「未来の市民」を育てる営み。国際交流は「敵を抽象化しない」ための仕組み。それぞれ時間軸が違う。だから本来は対立しない。問題は、防衛力だけで平和を作ろうとしたり、教育だけで侵略を防げると思ったり、交流だけで国家間の利害対立が消えると思ったりすることです。どれか一つに全てを託した瞬間に、現実からこぼれ落ちるものが出てくる。平和教育というと、戦争の悲惨さを学ぶことを思い浮かべます。もちろん大切です。しかし同じくらい、異なる価値観を持つ人と付き合うこと、自分の正義を疑うこと、相手の立場を想像すること、歴史を単純な善悪で理解しないこと、そうした能力も平和教育なのだと思います。私は「想像力は路地裏で育つ」という背景で今日に来ました。ひょっとしてそうした狭い人間関係で見てきたことは、平和教育の核心ではないかとすら感じます。なぜなら戦争は、相手を人間として想像できなくなることと表裏一体だからです。少しだけ逆説的なことを言うなら、平和を守るために必要なのは、軍事力だけでも、理想主義だけでもなく、「相手にも物語がある」と知り続ける力なのかもしれません。靖国問題にしても、中国や韓国との歴史認識にしても、日本国内の憲法論議にしても、本当に難しいのは、自分の物語を語りながら、相手の物語も消さないことです。その作業は面倒で、時間もかかります。しかし、人類が戦争以外の方法で対立を処理しようとするなら、結局そこから逃げることはできないのでしょう。
院長 岡崎伸一
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