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親切心の逆効果
学生時代に自転車に乗っていたある日のこと。夕方の福岡六本松。特に急いでいるわけでもなく、ペダルをのんびりと踏みながら、ふと前方に目をやると、前方からご婦人がこちらに向かってペダルを漕いでくるのが見えた。やや年配、日傘を差し、買い物袋を下げている。まあよくある光景だ。彼女の進行を遮ってはならぬ。マナーというものがある。僕はささやかな配慮のつもりで、すっと右にハンドルを切った。すると、まさかの事態。おばさんも右に寄ってくるではないか。これはよくある「どっちか行こうねの駆け引き」だ。よし、それならと、今度は左にハンドルを切る。すると、またもやおばさんも左に。ん?まるで二人で不器用な社交ダンスを踊っているようだった。お互いに相手を思いやったがゆえに、動きが鏡合わせになってしまっている。だが事態はダンスのように優雅ではない。そして必然として——「あ〜あ〜あ〜!」
おばさんが思わず出した奇声が耳に残る。
軽く接触。ごく小さな衝突だった。物理的にはほとんど何も起きなかったと言ってよい。しかし、精神的な衝撃はそれなりに深刻だった。 「何やってんの! 全くもう!」
おばさんは、ぷりぷりと怒りながら立ち去っていった。僕は「す、すみません」と呟いたまま、何もできずその場に立ち尽くした。悪気はなかった。いや、むしろこちらは相手を避けようとしていたのだ。思いやりだったはずだ。なぜその結果がこれなのか。
だが、ここにこそ「親切心の罠」があるのだと、今なら思う。
こちらが良かれと思って動いた行為は、相手にとっては「判断を狂わすノイズ」となった。おばさんもまた、僕を避けようとした。お互いが、お互いの親切心を読み違えた結果、動きはズレ、重なり、ぶつかる。そしてその不器用な親切がもたらすのは、結果として怒りと羞恥、だけだった。もしも、あのとき僕が立ち止まっていれば——ただその場で止まり、相手の進路を明け渡す覚悟を持っていれば——きっと、ぶつかることもなく、おばさんは「どうもありがとうね」とひとこと残して通り過ぎた、と思う。
善意とは、動くことではなく、譲ることかもしれない。配慮とは、気づかれずに行われてこそ、本物なのかもしれない。
衝突のあの日から、自転車のブレーキをかける指に、ひとつの迷いが消えた。
私は、あの「ぷりぷりおばさん」に今も感謝している。
院長 岡崎伸一
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