ステイゴールド①|新清洲駅の歯科・歯医者なら、岡崎歯科

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ステイゴールド①

私の父の実家は古い長屋の一室だった。6畳二間に2畳ほどの物置としての天井裏があり、裏の庭には汲み取り式の便所があった。子供心に極めて貧しい暮らしをしてきた家なのだという、なんとも言えぬうら寂しさに覆われていた。父の実家に行くことは決して楽しくはなかった。私が生まれてしばらくして祖父は亡くなり、無口で無表情な祖母は孫との会話も「これ食べな」くらい、ただただ毎日近所の八幡社に何かをお祈りに行く、そんな人だった。時代は遡る。祖父と祖母は身寄りがはっきりしないもの同士だった。祖父は大正から昭和にかけて様々な職を渡り歩いた。学ぶ、という経験に乏しかった祖父母は日常生活のあらゆる場面で、総じて言えば辛酸を舐めてきた。とにかく我が子に学びを与えたかった。一方で祖父は戦後間も無く「交通安全教」という新興宗教を立ち上げた。交通ルールと宗教の区分けはどうだったのか新興宗教は数年で頓挫した。それでも祖父はがむしゃらに働き、祖母は八幡社に祈った。祈ったのは貧しさからの脱却ではなく我が子の幸せだった。人から尊敬される職業として祖父母の頭に浮かんだのは教師だった。聖職といえば、そして貧しさから抜け出すといえば島崎藤村の破戒よろしく教師だった。家族は光を掴みにいった。父は必死に勉強した。そして師範学校の切符を手に入れた。中学校社会科の教師になった父は祖父母にとって誇りだったに違いない。泥のような貧しさから抜け出せる、はずが祖父も祖母もその後亡くなるまで慎ましい生活を続けた。貧しい境遇から教師になった父もまた様々な葛藤を抱えながらの人生だった。葛藤は教員としての組合活動や政治への傾倒へと結びついていった。また、外国籍の生徒たちを集めての活動に熱を上げた。おそらく何かと闘っていた。普段は無口で無表情、痩せて髪は薄く気の利いたことの一つも言えない社会科教師、そんな父は39歳で結婚し、46歳で(長男である私が小学校に上がるとき)家を建てた。長屋ではない、共同便所ではない、十分すぎる家だった。その時点で祖父は他界し、祖母だけが元の長屋に住んでいた。父はいつまでも無口で無表情だった。母の実家は父と比べれば裕福といえた。おそらく、本人から聞いたわけでもないが、父の胸の内には決して晴れない何かが宿っていたはずだ。泥のような貧しさを脱してもそれを経験した者にまとわりつく何かが。毎夜ただ一人うなだれながら酒を飲み酔い潰れていた。時々叫ぶように独り言を吐き出していた。私は時々発せられる父を見下す母の言葉をできる限り拾わないようにしていた。そして父はひょっとしたら子である僕たち兄弟が父方の家を良く思っていない、または恥ずかしく感じているなどと思いながら引け目を感じているかもしれない、と感じていた。息苦しさが生き苦しさにつながるちょっとした緊張感の中にいた、今思えば。

院長 岡崎伸一