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ウソとフルーチェと思春期
中学生の時メガトン級のウソをつきました。
「オレはバイクに乗っている」と。
そう言わなきゃちょっとワルなあの子は振り向いてくれない、今思えばアホすぎました。当然の如く「だったら見せてくれよ」とクラスの多くから言い寄られます。
こうなることくらい見通せなかったのか、と自分に呆れるしかありませんでした。
そして、絶望する間も無く追い詰められ、本当に、もう、どうしようもなくなり、目の前は白くなり、世界はゆがみ、嗚咽し、
ウソつきました〜!
と叫び、体を震わし、えぐえぐと泣き続けました。
破滅、誰がどうみても破滅でした。
そして「人は過ちを犯し、決定的に信頼を失った後、どうするべきか?」
自分が座る空間は教室の中の針の筵、切腹、出家、懺悔録記述人生、とめてくれるなおっかさん・・・そんな妄想しつつも、ただ、反省して日々を生きる、それしかありませんでした。友人たちもやっちまった奴として変わらず接してくれました。それでも過ちを犯した後ろめたさは泥のようにまとわりついてきました。生き辛すぎました。心を支えるために何かが必要でした。乾いた、実りを迎える気配も全くない荒れた心を包んでくれる優しい何かが・・・。
嗚呼、中学生の私にとってそれはフルーチェでした。
しかも説明書きの分量よりも少量の牛乳を混ぜてかためにしたストロングタイプのフルーチェ。それをじっくりと、かつゆっくりと味わいながら食すことでした。日々溺れそうな心をフルーチェでまぜまぜ、そう、ひたすらまぜまぜしながら心を癒す、そんな時間だけはすーっと心落ち着くのでした。
蛇足ですがその日々は私の歯に虫歯を引き起こしました。
一方で混ぜて固める、将来関わる歯科材料の特性を理解する原型がそこにはありました。心のバランスを保つためにする一つの行動が引き起こす光と影、大人の階段を上るために不必要なものなどあろうはずがありません。
徳永英明の壊れかけのRadioに「思春期に少年から大人にかわる 道を探していた 汚れもないままに」という一節がありますが、まさに、ウソもフルーチェも汚れない心から自然発生的に生じたその先の人生にとっての必然でした。
こんなことを綴っていたら、ああ、久々にフルーチェが食べたくなりました。あは。
院長 岡崎伸一