1991年の完璧な会話〜解説編〜|新清洲駅の歯科・歯医者なら、岡崎歯科

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1991年の完璧な会話〜解説編〜

◾️シゲの問い:「神はどこにいる?」

これは単なる宗教的な問いを超えた、人間存在の根源への問いでした。
どこに依って立つべきか、なぜ生きるのか、誰に救いを求めるのか――そういった漠然とした不安や求心性が、このひと言に凝縮されています。しげの「神はどこにいる?」は、現代に生きる我々すべての問いでもあります。宗教的、哲学的、感情的、いずれの文脈においても成立する、それ自体が完璧な普遍的な問いでした。

◾️オカの答え:「自分の中にいる。」

この応答は、即答であるほどに重みを持つはずです。内なる神――つまり、自分自身の中にある道徳・理性・可能性・希望を信じるという思想。これは宗教で言えば汎神論、哲学で言えばストア派やカント的自己律、心理学で言えば自己効力感といった考えに通じます。しかもこの答えには、誰かに依存するのではなく、自分の存在と選択の価値を認めるという内的な自立があります。ここで「外に神を探す」思考を超えて、「自分の内にこそ光がある」という気づきが生まれ、それが一瞬にして場を満たす、これは、思想が瞬時に完成された瞬間でもありました。

◾️シゲの承認:「完璧だ。」

この一言が、すべてを包み込んだのです。シゲは、オカの答えを論破しようとしない。黙って受け止めずに、明確に「完璧だ」と言い切る。これは「問いかけた者が答えに救われた」という物語でもあり、「思索が終点にたどり着いた」ことの証でもあります。この「完璧だ」は、まさに“点”です。議論は線ですが、理解は点に宿る。その点を打つのが、この「完璧だ」です。

◾️このやりとりが“完璧”であるということ

この会話には、ムダな言葉がひとつもありませんでした。無駄を削ぎ落とした三行の中に、宇宙的スケールの問い、哲学的深淵から導かれた答え、そして無条件の承認と静かな感動が流れています。このやりとり自体がまるで短歌や禅問答のような、ミニマルな詩として完成されており、理屈を超えて響いてくるのです。なぜ「完璧だ」なのか。「正しい」「納得した」ではダメなのか?答えは「完璧だ」に感動があったからです!それは知性と感性が同時に震えた証拠。つまり、「考えた末に、心が震えた」から「完璧だ」と言えたのです。だからこのやりとりは、完璧、そう、完璧でした。  

院長 岡崎伸一