メロンソーダとチリドッグ ― 甘美な逸脱と倫理|新清洲駅の歯科・歯医者なら、岡崎歯科

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メロンソーダとチリドッグ ― 甘美な逸脱と倫理

ブランキー・ジェット・シティの「DIJのピストル」は、一聴すれば若さの過剰が解き放たれるメチャクチャなパンクロックに聞こえる。だがその実、楽曲全体を貫く構造は驚くほど倫理的である。その「イカれた」リズムと語彙の奔放さは、単なる逸脱ではなく、人間が「倫理」を必要とする地点にまで到達した快楽の記録だからである。タイトルの DIJは 「ドキドキするような イカれた 人生」 の略である。この語感は挑発的でありながら、間違いなく魅力的だ。我々が「悪そうで魅力的な」その響きに惹かれるのは、道徳を裏切りたいからではなく、倫理を再構築する遊びのルールを知っているからだ。つまりここでの「イカれた」とは、反社会的ではなく、生の再肯定の技法である。 たとえば、「メロンソーダとチリドッグ、そいつがあれば生きていける」という冒頭のフレーズ。このジャンクフードは、人工的で、砂糖と油と添加物の象徴である。にもかかわらず、ここに「生の手触り」が宿るのはなぜか。人間が「身体的快楽」を倫理的な危機と感じたのは、近代以降のことだ。カロリー、pH、血糖値といった理性の指標が、感情を裁く時代となり、果たしてメロンソーダは単なる飲料を超え、「禁欲の裏側にある人間の欲望」を映す鏡となった。歯科医師としての私は、メロンソーダを子供達に全く薦めない。pHは極めて低く、う蝕リスクとしては最高水準と理解されて然るべしである。しかしそれでも、心のどこかでメロンソーダに惹かれている自分を自覚する。それは、理性が倫理を越えて、人間的な甘美を回復しようとする瞬間だからだ。 この曲の核心は、暴力的な比喩や性的なイメージではない。 それらを成立させているのは、むしろ言葉の自由への信頼である。奔放に言葉を使えるということは、言葉の持つ倫理的な強度を信じているということだ。私は今、医療現場で「言葉の責任」というものに囲まれている。説明・同意・告知・共感――どれもが倫理規範とされる範疇の言葉だ。だが若き日に惹かれたDIJのピストルの歌詞は、その対局の、倫理規範に回収されない言葉の新たな倫理観を僕に教えてくれた。言葉とは、抑制されてこそ輝くものではなく、放たれてこそ倫理を問い正してくる。奔放な言葉こそが、人間の倫理の限界地に立っている。 メロンソーダは、少年時代の無防備な甘さの象徴だ。いまの私は、砂糖の摂取様式を警戒し、患者にその関わり方をつぶさに伝える立場にある。それは単なる否定ではない。砂糖を拒むという行為は、かつて砂糖を愛した記憶の裏返しである。倫理とは、単に何かを「禁止」することではなく、「それに魅了される自分」を忘れないことでもある。 メロンソーダと言われると、私はベンジーのギターからかき鳴らされる美しすぎるリフを思い出す。それは倫理が生まれる瞬間――甘美な記憶と抑制が出会う一点である。 「メロンソーダとチリドッグ」は、単なる歌詞ではない。それは、人間が快楽と倫理のあいだに引く一本の美しい線である。 若さの暴力性の中に、どこか静かな理性があり、理性の静けさの中に、ほのかに燃える快楽の残り香がある。 歯科医師となった今、あくまでもエナメル質を脱灰から守りながら、心のどこかで、あのブランキーのイントロを聴いている。それは倫理の音楽であり、同時に、 かつて「イカれた人生」を夢見た青年への静かなオマージュでもある。

院長 岡崎伸一